ばいーん。 「………」 「………」 冷気と熱気の混在する静寂が、場に満ちて暫し。 たっぷりと時間をかけて息を吐きつつ、白衣の女が振り返って来る。無言で。 えへ、などと青年が邪気のない笑みを浮かべてみせた所で、彼女の静かな怒りが治まる筈もないのだが……彼は一切気に留めない。 「魂積【モトヅミ】殿、やはり貴殿か」 白衣の女――蒼穹第八霊獣・夜尾【ヤオ】は吐き棄てる様に言う。 ある程度予想はしていた。理解もしているつもりだ。 ――魂積。 蒼穹に就き従う『ファースト』――第一の霊獣――たる、このおっとりした青年は、いつだって平然とタチの悪いイタズラをやらかしてくれる。 問題は本人に殆ど自覚がないと言う所だ。 全くの無垢なのだ。諭した所で意味が無い。 そもそも自覚の有無という点では、魂積よりよっぽど手に負えない男が殿中にいる。 ぶつかって来たのが『あの男』でなくて良かったと、心のどこかで思いながらも夜尾の表情は渋い。 今更ながらに、いつも抱えているファイルを後ろ手に、ガードしているその箇所。 ……夜尾は、兎角真面目な仕事人であった。 「何のつもりですかな? 返答次第では相応の覚悟をして頂きますぞ」 「あっ、ヤだなぁ。そんな怖いカオ……そーだ。これ、夜尾殿にもあげるー」 「……この様な、菓子如きで釣られる私では……――魂積殿」 白い獣毛に覆われた長い片耳が、夜尾の頭上でぴくぴくと突っ張っている。 心なしか、夜尾の顔が赤みを帯びている様な。 彼女の耳の毛が逆立ち、薄い被膜の下の血管が鮮やかに浮き上がっている様な。 ――こ、殺される。 常日頃その手の予感には縁遠いのほほん魂積でさえ、一瞬にして肝を冷やすその形相。 もはや、「勢い余ってうっかり〜」などという言い訳も通るまい。 ――殴り殺されてしまう。あの鋭利な、ファイルの角で。 「主殿に最も近しい獣であろうと、一切容赦はせぬ故――」 「や。夜尾殿。僕の話きいてー」 魂積はそれでも往生際悪く弁解を試みた。ぱたぱたと諸手を振りながら。 男らしくないとは思うが、この五霊殿に夜尾の右に出る男前はいないと認識しているし、何より自身がそんなキャラではない事をも自覚している。もっと言えば――夜尾は単に、怒りの矛先を求めているだけだ。 彼は、素直に頭を下げた。 「ゴメンナサイ。蒼穹様がどーしても、夜尾殿のスリーサイズを知りたいって言うから、僕……」 「ほ、ほぉう……」 彼は、ごくごくさらりと口にしていた。この際、真実であるかどうかは二の次だった。 みる間にどす黒く染まる夜尾の顔色。一瞬後にはその口元が深い笑みを形作る。 「ふ、ふふ……ふはははは。主殿にも困ったものだ」 「えへへ……」 「ならばお望み通り、根性を叩き直して進ぜよう」 「…………」 どす黒い笑みで踵を返し、迷い無い足取りで何処かへと向かう夜尾。 一路、長の居る執務室へと向かっているのは先ず間違いないだろう。 難を逃れた魂積は安堵の吐息。緊迫感のない笑顔は、悪びれる気配すら見受けられない。 「よかったぁ、夜尾殿。すんなり許してくれたねー」 本気でそう思っている顔だ。 「なななんと羨ましい事……ッ!!」 「わあ。びっくりした〜。なになに、いつからいたの〜?」 「『ばいん』とぶつかる前からですよ、勿論」 「そぉーなんだぁ〜」 風に吹かれる柳の様に笑う魂積の後ろにいつの間にやら立っていたのはローブを目深に被った男。 蒼穹第九霊獣候補の架【クルス】だ。 「いやあ、鮮やかな手腕。あの切欠と云い、危機回避と云い。お見事でした」 「そぉ?」 「私だったらこうは行きません。その場で刺されてますよ。問答無用でね」 「刺……ああ、あの角でね。痛そう〜。それだけは勘弁だよね〜」 「まったく。然りです」 廊下の先に消え行く夜尾の背を見送り、無駄に力説する片や。 対して、へらへらと脱力感さえ漂わせている魂積。 共通するのは双方共に、何処か他人事の距離感で「ソレ」を語らっている事だろうか。 「架殿は夜尾殿の事大好きなんだよねぇ」 「何ですか突然。そんな本当の事……照れるじゃないですか」 「大好きなんだね〜」 「はっはっは。――故に羨ましいったらないですよ。夜尾さんにぶつかった貴方の手になりたい程に」 「無理ー」 ぶつかった手。架が冗談めかす言葉に、魂積もまた軽い口調で即答して両手を彼から遠ざける。 知っているのだ。 それが決して冗談などではない事を。 架がローブの奥から決して覗かせる事の無い瞳が、いつだって笑っていない事を。 「良いじゃないですか。減るもんじゃなし」 「だめー。代わりにこれあげる。おかしー」 魂積が架の目の前に差し出す菓子折りの箱は、些か『その夜』には不似合いだが、そもそもそのテの行事に興じる習慣がない以上、厭うべくもない。 「………良いでしょう。今夜は長殿の趣味に免じて――」 「とりっく おあ とりーと♪」 「「Happy Halloween」」 互いに馴染まぬ言葉を口にする。 しかして、精霊の長にとっては『趣味』を越えた命懸けの一夜が幕を開ける事になるのだ。 余計な事を言った誰かの『所為で』。 身に覚えの無い嫌疑をかけられた主は、しかし、疑われてもしょうがないだけの前科があるのもまた事実である為に、逃げ場も無い。 聞く耳を持たない夜尾に強かに打ちのめされる主の姿が目に浮かぶ様だ。 それを―― 「本当は解っててやっているんでしょう? いやはや」 「だってー、ヒマなんだものー」 それでいて悪気は一切無いと云うのだから、なかなかどうして恐ろしい。と。架は魂積の笑顔に思う。 自覚の有無という点では――正直、己などよりよっぽど手に負えない存在であるに違いない。 彼の笑顔は、無害であるか否か。 それを知る者は数える程しか此処には居まい。 「――ああ、そうそう。コレを」 闇に潜りかけ、架は思い出した様に魂積の掌にキャンディーを一つ落とした。 子供の様に表情を輝かせて魂積は言う。 「これ、僕が無想殿にあげて来たヤツだ〜♪」 「おや。バレましたか。……ていうか、差し上げた品が返って来たのに嬉しそうですね?」 「だってー。僕から無想殿、無想殿から架殿に『とりーと&とりーと♪』ならとても素敵な事じゃない?」 「……そんな浮かれた経緯じゃなかったですけど……まぁ、祭の夜に無粋な事は抜きって事で」 「? よくわからないけど、そうしようー」 屈託なく、或いは陽気に。 気が済むまで笑い合う二人だった。 ● ● ● 「きょーてー。ぼっけぇきょーてー!!」 只者ではない二人の同座。となれば、只事であるはずがない。 彼らの存在に気付いて咄嗟に隠れた物陰で、都嶺【ミヤネ】は恐怖に慄いていた。 彼とて蒼穹第三に数えられる霊獣ではあるが、同族に比しては位階が低い身の上。半泣きである。 『キョーテー。……ッテ、何ダ?』 都嶺が涙目でかじりついている物体――柱、否、石像の頭部から、聞こえる声。 ごもっともな指摘なのだが、都嶺にしてみれば意味が解らないと言われる意味が解らなかった。 それ以前に、今は説明するどころではないのだ。 「しっ!」 白と黒、種さえ異なる対の翼を持つトカゲは、己の数倍以上もある巨大な頭を黙らせるべく力一杯全身を寄せた。 ――と。 一瞬後。廊下に響く轟音、立ち昇る砂埃。 『アレ? ミヤ? 戻……』 助けを求める石像――蒼穹第四霊獣・石儀【シギ】の頭部を放置して、都嶺は一目散に逃走したそうな。 ※「ぼっけーきょーてー」とは。 岡山弁で「すごく怖い」の意。「でーれーきょーてー」も同義です。 |