「ナタエ殿?」 白い殿廊の先に思いがけない顔を見つけて払霧【フツギリ】は足を止めた。 弾みでずれかけた鼻先の黒眼鏡を押し上げると、その小さな丸いレンズに、照れ臭そうに微笑して軽く片手を挙げる青年の姿が映り込む。 七紗【ナタエ】。メッセンジャーを束ねる伝令頭にして、地上に身を置く蒼穹第七の霊獣である。 「どうしたんだ? 定例報告の時期は、もう少し先だったと記憶しているが」 「ああ。本当はもう少し早く来るつもりでいたんだけど」 七紗の言に払霧は首を傾げ、次の瞬間、表情を引き締めた。 まさか、地上で何か良からぬ事態が起きたのか。 払霧の緊張を感じ取ってか、七紗は軽く俯く様に笑みを零してその空気を往なす。「違うよ」とでも言いたげに。 くすんだ金のオールバックから飛び出している触角の様な紅い前髪の房が、ひょい、と揺れた。 「新年の、挨拶」 ああ、と払霧は思い至った様に唸る。細い目を一層細くして。 照れ隠しだろうか、七紗は言葉少なに続ける。 「――蒼穹様、そういうの好きだろ。それで」 ちょっと遅くなったけど。 との言葉に、「さもなし」と僅かに口元を歪める笑みを以て応える払霧。 『四季』と言う概念が存在しないこの大陸において、暦は殆ど意味を持たない。 ――が、『外界』の文化に大層ご執心の精霊長殿にとっては、その手の行事は常々欠かせぬものであるらしかった。早い話が我らが主は『外界かぶれ』なのである。 払霧にしてみれば、同胞の中でもとびきり現実主義の七紗が長殿の与太に付き合って(それも今回に限っては自主的に、だ)上に顔を出した事自体、異例の事態であると感じているのだが、それだけ七紗の心も解れて来たという事なのだろう。 (無想殿は、何て言うだろうな……) そんな事をふと思い浮かべて、苦笑もする。それを見て今度は七紗が首を傾げた。 「……にしても、払霧殿と真っ先に鉢合わせるなんて珍しいな」 「そうだな。私は、部屋にいる事の方が多いからな」 「だよな」 趣味と実益を兼ねる薬剤調合のため自室に四六時中引き篭っている払霧が、こうして五霊殿内を闊歩している姿というのは、七紗の目にはとても新鮮だ。 彼が仕事で五霊殿に顔を出した時……出迎えてくれるのは大抵、五霊付きの童僕・紫雲【シウン】か、すっかり長殿の秘書と化している夜尾【ヤオ】だった。 おかげで、滅多にない顔と鉢合わせた時は自然と勘繰ってしまう。 先ほどの払霧と、似た様なものだ。 「……何かあった?」 穏やかな相好もそのままに訊ねる七紗。払霧は解り易く狼狽えた。 ただし、二人の知る限り殿内には決して少なくないトラブルメーカー達がいるため、その『何か』自体はさほど珍しい事ではない。大概は一時的かつ散発的な多事雑事。 日頃殿内に居ない七紗にとっては面白い事であり、一方、その後始末に追われる払霧にとっては面白くない事である。ただ単にそれだけの事なのである。 とりわけ、先だっての『カボチャ祭事変』(払霧はそう呼んでいる)の諸々は未だに尾を引いていた。次ぐ『赤い服白ヒゲの怪』(払霧は以下略)で状況は決定的に悪化し、現在、払霧はその後処理の只中。 「まぁ、詳しくは聞かないけど。……そうそう。それで、その夜尾殿はどこにいるかな」 怒気に満ちた払霧の表情から全てを悟り、七紗はあっさり話題を切り上げて問うた。 彼女を通さない事には、長がまともに話せる状態ではなかったりするし、何より、夜尾自身の知らぬ間に自分が長に謁見したとなると、後々何かと面倒な事になるのである。 伝令としての役目を仰せつかっている以上、やむを得ない事ではあった。 七紗殿も夜尾殿が怖いと見える。払霧は、苦笑に歪む口を開きかけた。 「夜尾殿は蒼穹様をコロ……」 「ころ?」 払霧の頭から、ざあ、と一気に血の気が引いていく音が聞こえた気がする。 一瞬、ヒレ耳の付け根の辺りから蒸気を噴いてよろめく彼に、さすがの七紗も慌てた。 慌てながらも、何となくこれまた察しがついて、窺う様に指を立て―― 「こ。……転がしている?」 「……――」 2人は、互いに己の中に封じ込めた『物騒なとある言葉』を瞬時に理解した。 理解し、かつ共有もしていた。 無論、実際にそういった事がありえるなどとは思っていないが、夜尾のご機嫌がそこはかとなく、それはもうとてつもなく麗しくないという事だけは、十分に理解できた。 「……どのみち一緒に居るって事か。じゃあ、俺が直接行く事にするよ」 「そうか。……くれぐれも、気をつけろよ」 なんなら、様子を見て日を改めると言う手も。 どこか疲れた様に肩を落とす払霧、だが、七紗はまるで気にした様子もない。 「大丈夫。万が一はないと思うけど、危なそうなら止めに入るし」 軽く振られた彼の右手の指先に、ほのめく白い糸の影。 手荒な事はしないだろうが―― やるとなったら容赦もしない七紗の事。何となく不安に駆られはしたものの、「俺は空気なんて読めないからね」と笑う彼に、払霧は何も言わなかった。 『生真面目』というものとは種類が違う様に思える、彼の真剣は――生真面目が暴走した夜尾と、自堕落を代表する蒼穹の間に割って入り、納まるべき場所にきっちり納めてしまう得体の知れない力を発揮するのだろう。今回も。 それはある種の才能だと、払霧は一目置いている。 置いてはいるのだが…… 手を振り糸を完全に切り捨てて、その手を上着のポケットに突っ込み歩いて行く七紗の後姿を見送りながら。 「それにしても……」 呟いたのは、果たしてどちらだったのか。或いは、ほぼ同時に。 「相変わらず、人が悪い御人だ」 「相変わらず、苦労してるんだなぁ……」 苦笑めいた表情までそっくり同じであった事など、互いに背を向けてそれぞれ目的の場所に向かう二人は知る由もなかった。 |